歴史を垣間見る

13 世紀のヴェネツィア商人マルコ・ポーロによる「ジパング」という名前の島につい ての記述は、確かにスイスにも伝えられていました。しかし、日本とスイスの非公式な 交流が始まったのはルツェルンの都市書記、レンヴァルト・ツィザットがヨーロッパ で初めて日本について書いた書籍『日本諸島実記』を出版した 16 世紀末のこと。イエズス会宣教師の実体験と情報収集に基づいて書かれたこの本には、ドイツ語圏地 域で知られていた日本の最初の木版地図が掲載されていました。そして、スイス人が初めて日本に上陸したのは江戸時代、フリブール出身の傭兵隊長エリー・リポンでした。 彼はオランダ東インド会社に仕えて航海し、1623 年に長崎に上陸し、観察したことを ヨーロッパ人に伝えました。その約 180 年後の 1805 年には、チューリッヒ生まれの天文学者で物理学者のヨハン・カスパール・ホルナーが、ロシアの科学・外交使節団の一員として来日しました。日本との交易を開始するという当初の希望は叶いません でしたが、ホルナーが 30 人ほどの日本人役人の前で、日本の和紙で作った西洋の熱気球を飛行させるデモンストレーションを梅香崎で行った事が、日本との科学交流の先駆けとなったのです。

日本とスイスのより緊密な結びつきが築かれたのは、江戸時代後半、日本が外国との 貿易を解禁する頃でした。ヌシャテル出身のエメ・アンベールは東スイスの繊維製造業とスイス時計産業のために新たな市場を開拓することを目指し、1861 年 4 月に スイス連邦内閣より遣日使節団長に任命されました。自由主義の提唱者で、時計製造者協会の会長、スイス連邦上院議員の一人であったアンベールは、スイスと日本の修 好通商条約の締結に重要な役割を果たしました。1863 年 4 月 27 日、アンベールは オランダの軍艦メデゥーサ号で横浜港に入港し、その後日本の当局と精力的に交渉を 続けました。そしてついに 1864 年 2 月 6 日、徳川幕府とアンベール代表団の代表が 修好通商条約に調印するに至ったのです。日本にとって第 8 番目の外国との修好通商 条約の締結でした。その結果 19 世紀には、横浜のスイス貿易商社は日本製絹の主要 な輸出業者に数えられることになりました。また、スイスからは大量の織物や時計が 日本に輸出されました。こうして、スイス時計の対日輸出は隆盛を誇り、20 世紀初頭 まで、スイスは日本の時計市場をほぼ独占してきました。

アンベールは日本に滞在した約 10 カ月の間に各地を精力的に旅し、日本の歴史、地理、宗教、社会制度、政治機構、風俗慣習などを事細かに調査しました。その後有能な著述家で編集者として、彼は、書店で購入した図画や、調査に同行した画家のスケッチなどを掲載した『幕末日本図絵』(Le Japon Illustré)を書き上げ、帰国後に出版しています。

1906 年、スイス政府は東京に初めて常設の代表部としてスイス公使館を開設しました。1930 年代には二国間の貿易は縮小し、ほぼ完全に途絶えましたが、第二次世界大戦中スイスは中立国として、米国、オーストラリアや南アフリカの国々における日本の利益を代表するよう依頼を受ける立場になりました。この時、スイスの公使館は、日本国内で 20 か国の利益を代表し、その中には米国やイギリスも含まれていました。 また、負傷した兵士の苦しみを和らげ、国境を越えた人道救援活動を推進すること を目的にジャン • アンリ • デュナンによって 1863 年にジュネーブに設立された国際 赤十字委員会(ICRC)の存在も注目を集めました。赤十字国際委員会駐日主席代表 として派遣されていたスイスの医師マルセル・ジュノー博士は、連合国占領軍に大 量の医薬品の供給を要請し、広島の原爆投下による無数の被ばく者を救いました。 博士はその後、核兵器廃絶を世界に訴え続け、母国スイスで没した後、博士の功績を 称え、広島平和記念公園に記念碑が建立されました。

1952 年、日本が独立を回復すると科学と文化の分野での交流と同様、貿易は急速に回 復しました。1956 年に航空協定が結ばれ定期便の就航によって二国間の関係はより密 接になり、スイス航空がチューリッヒと東京の羽田間の運行を開始したのが 1957 年のことでした。そして徐々にその重要性が再び高まるとともに、スイスの輸出は急成 長していきました。

今日、スイスと日本は様々な分野において緊密な関係を享受しています。経済は今も 二国間の交流における重要な柱であることに変わりはありません。時計、機械装置や 繊維を中心として始まった通商取引は、日本とスイスの貿易の拡大と繁栄をもたらし、各種の二国間協定や共有の経済の枠組みによって、さらに強化され、促進されてきま した。中でも最も重要な協定は、2009 年に発効した日本・スイス経済連携協定です。スイスは欧州諸国の中で最初に日本とこうした包括的な協定を結んだ国となりました。現在、スイスの対日輸出の主要品目は医薬品、時計、医療機器そして化学製品、逆に 日本からのスイス向け輸出は、自動車、貴金属、医薬品、及び機械装置が中心となっています。2012 年の両国間の貿易総額は 112 億スイスフラン(約 1 兆 2,000 億円) に達し、日本はスイスにとって 4 番目の貿易相手国になっています。

科学技術分野の協力も非常に重要です。日本はスイスにとって、教育、研究、イノベー ションの各分野で、協力や交流を深めたい欧州連合以外の 7 つの優先国のひとつで あるのみならず、アジアにおけるもっとも重要な研究パートナーと位置付けられてい ます。スイス連邦政府と日本国政府の間で二国間科学技術協力協定が調印されたのは2007 年 7 月 10 日でした。この協定に基づき、両国政府と関係機関は定期的に合同委 員会を開催し、情報交換を行うとともに、スムーズで効率的な協力関係の実現を支援 しています。また日本担当の窓口機関であるスイス連邦工科大学チューリヒ校(ETH Zurich)は、スイス科学財団は科学技術振興機構(JST)や日本学術振興会(JSPS) とともに両国間の共同研究や研究者交流を助成してきました。民間レベルでは両国 のもっとも優れた研究機関や大学の間で 60 以上の提携合意が結ばれている他、産業界に数えきれないほど多くの連携がみられるのは言うまでもありません。科学技術分野における 150 周年記念事業は、日本では物質・材料研究機構(NIMS)と ETH Zurich 主催のナノテク・シンポジウム、スイスではイノベーションの振興を目指す技術革新委員会(CTI)と文部科学省(MEXT)主催の合同シンポジウムに始まります。

文化もスイスと日本が常に活発な交流を行っている分野です。スイスの最も有名な建築家の何人かはすでに日本に足跡を残しています。たとえばヘルツォーク & ド・ムーロンがてがけた表参道の商業施設、マリオ・ボッタが設計した渋谷のワタリウム美術館またル・コルビュジエによる東京上野の国立西洋美術館などがあげられます。また、逆にスイスにおける日本人の建築家についても同様です。たとえば最近では妹島和世 と西沢立衛の建築事務所「SANAA」によるスイス連邦工科大学ローザンヌ校(EPFL) の「ロレックス・ラーニングセンター」が高い評価を得ています。文学においては日本語で小説を書くスイス生まれのデビット・ゾペティが「いちげんさん」で第 20 回すばる文学賞および第 50 回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しています。音楽で はヨーロッパで最も権威あるジャズイベントで故クロード・ノブスが創始者であるモントルー・ジャズ・フェスティバルが川崎に新しい拠点を置きました。世界的に有名なルツェルン音楽祭は日本にも多くのクラシックファンを得ています。そのルツェルン音楽祭と日本との強いつながりで松島に初めて可動式コンサートホールのアーク・ ノヴァが建てられました。

スイスの日本に対する友好の証は、2011 年 3 月 11 日の東日本大震災の後に寄せられた 多く連帯に示されました。スイス政府は被災地に救助隊を派遣し、また数々の民間 ドナーは復興プロジェクトへの寄付を行いました。スイス赤十字やカリタスなどから 寄せられた 3,000 万スイスフランを超える救援金により、宮城県女川町の地域医療セ ンターが復旧され、また福祉施設も建設されました。

スイスは様々な面で日本人の注目を集める国です。たとえば公用語が 4 つある多民族国家であること、あるいは国民の声が反映される直接民主制などです。そして多くの 日本人にとって最も象徴的なのはスイスアルプスです。これは宮崎駿と高畑勲の制作のアニメーションシリーズの『アルプスの少女ハイジ』の人気のおかげによるもので、 原作者はヨハンナ・シュピーリ。ハイジが育った大自然は、今でもしっかりとスイスに残されています。今日、日本人が持つスイスの良いイメージはハイジの恩恵にあずかるところが大きいといえます。

2014 年は修好通商条約締結から 150 年の節目を迎えるため、スイスと日本の友好関係史の新しい章の始まりとなります。記念年を祝してスイスと日本両国内で、世界的 に有名な音楽家による演奏会やスイス芸術家の大規模な回顧展など、多くの特別イベ ントが予定されています。両国が持つ独自の文化的そして歴史的な宝物の力を生かし ながら、今後もスイスと日本はともに明るい未来を創造し続けていきます。この記念すべき年を共に祝し、日本の方々の中に小さなスイスが芽生えることを願っています。